PROSTORATA

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『』2023-09-29

制作についての記録

自分なりの絵画について再考し、それをもとに制作を行なってみる、という内容の授業にて行なった、制作また思考の過程の記録である。 
 私はまず絵画について、こう定義づけた。
・裏と表がある
・人の意思が介入する
・画面に物体のそれ以上の情報が入る
この3つが重要であると考えた(なお、外側からの意識(他者による歴史的な位置づけなど)については言及せず、書き手の直接的な関与によるもののみを視野に入れている)。このうち上2つは書き手の意思に関係なく起こるので、今回は考えずに3つ目「画面に物体のそれ以上の情報が入る」について考えた。

「画面に物体のそれ以上の情報が入る」とは、説明をするまでもなく視覚情報から感じる美しさ、熱量、ここに羅列しきれない情報たちが画面にのることである。文章で絵画を説明し切ることは、絶対にできない。例えば絵の具の塊を、絵画という視覚情報で各々が受け取り、それぞれ違ったものを考える。もしかしたら、考えるまでもなく美しくある。そういった状態が、画面にのることを私は目指したい。
 しかしそれは、ある程度は意図的に達成できるものであるが、私の本当によいと感じる領域は、一朝一夕には届くものではない。そのため、描いて考え、描いて考え、描くことを続けること自体に価値が生まれる。その積み重ねを「絵画をする」と言いたい。

この作品は、本来絵画において必要のない「文章」というものをあえて画面にのせた後、自分の手でそれを見えなくしていく、という行為の産物である。これは、例えば文章で絵画を説明し切ることは必ず無いような、視覚情報としての絵画の可能性への期待を、行為としてものにしようという考えによるものだ。
 文章は私の個人的に長年抱えてきた気がかりについての内容であり、重要な内容であるが、絵画の上でそれを「文章による説明」としてのせる必要性は微塵もない。本来、全く読めない状態にする予定だった。
 私は絵画に「言葉で説明するまでもない視覚情報としての熱量や美しさ」を求めている。書き手がそのことについて意識的である必要性は否定できない。対して私がいつも絵画として行なっている作業は、「自分の考えや感覚をどう画面に反映させるかの実験」であり、「それがどう画面に表れるか」すなわち「どうしたら画面が美しくあれる、また考えが伝わる画面になるか」については全く意識を向けていなかったのである。そしてその私の「自分の考えや感覚をどう画面に反映させるかの実験」については、数学の試験で途中式をすっ飛ばせないように、文章などによるプロセスの説明を省いては成立しないのである。一方では視覚情報のみで完成させたいのに、また一方では説明がないと完結しないことに興味を持って取り組む。私のやっていることにはズレがある。
 この文脈により、「ズレ」があるのがよいかは置いておいて、そのことに意識的であることに重要性を感じ、統制の取れていないステッチによって、本心を全て隠しきらずに、しかし隠そうとする行為へと移行した。

また、とりあえずズレを認める試みとして、講評(展示)の段階で作品についての説明(をのせているページのQRコード)を添えておく、という初の試みをすることにした。なぜなら、説明が必要な作品であるのに説明がないのはあまりに不親切であるから。
 とりあえずは、一旦、このかたちを、私なりの不格好な絵画、また「絵画をする」ということにさせておいてほしい。

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