PROSTORATA

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言葉は、

飼っている犬を撫でた。その瞬間、犬を、犬の皮膚を、犬の毛皮の奥を、私の手が切り裂いた。それは唐突で、あまりの出来事に言葉も出なかった。私の爪はきれいに切りそろえられており、何かを傷つけてしまうような形はしていない。指だってごく普通の柔らかい手である。その手で、なんの変哲もない私の手で、犬を……。

ではどうしてこんなことになってしまったのだろうか——思い返せば、以前からほんの少し自分の体を掻いただけで表面に引っ掻き傷のようなものができていた気がするがそれは予兆だったのだろうか——考えてもキッカケや理由は全く見当がつかない。そもそもわけがわからないのだ、ごく普通の手でごく普通に触れただけでどうして生き物に傷がつくのだ。ものに触れるための唯一が凶器になりかわってしまったことに、恐怖を感じずにはいられなかった。

とりあえず私は傷ついた犬を慎重にかごに誘導し動物病院につれていった。私の意思でやったことではないが血を流す犬をこのままにしておくわけにはいかないし、外でもない飼い主である私が犬を命の危機に晒している現状は非常にまずかった。病院にて案の定質問責めにされたあと、私の犬は保護されることになった。

それからというもの私は何をするにも億劫だった。物には触れても特に何も起こらないのが不幸中の幸いで、パソコンを触ったり家事をこなしたりするには全く支障はなかった。自分を触る時は、慎重に気を配れば少し傷がつく程度で治められるようになったが、うっかりするとなかなかの量の血を流す羽目になった。さすがにまずいと思い病院に行っても医者は困るだけだったし、当てはまる病名が見つかることはない。この状態で人と接するとなると、その気がなくても相手をパックリなんてのは想像にたやすいだろう。私は人に会うのをやめた。

一ヶ月ほどたって、軽く外に出られるくらいには自分の手を上手く扱えるようになってきた。さすがに仕事にも復帰しなくてはならない時期にはなってきたが、どうやら会社で私が犬に大きな怪我を負わせた噂が広まっているらしく、もし完治してもなかなか行きづらいだろう(そもそも治るものなのかもわからないが)。それにしばらく人と接していないのも私にとって大きな負担となってしまった。何もやることがなく、だらしない毎日を過ごすしかなかった。

♢♢♢

客がきた。

少しきまずくなっていた相手だった。

そいつは会社の同僚で、私はそいつとしょっちゅう小さなことで揉めていたのだが、私が会社を休み始める直前に大きな言い争いをしてしまった。我ながら子供っぽかったとは思っていたが、それから期間が空いているせいでなんとも顔を合わせづらい。ただ見舞いに来てくれたのは正直嬉しかった。

「調子はどうだ?何があったんだ」わたしはそいつに触れないように意識しながら家に入れた——そいつはいい加減使い古して固くなった座布団に腰を下ろしながら聞いてきた。「メシは食べてるか」

「言われなくても、まあ」

私が痩せているのに気が付いたんだろう。最低限の食事は取っていても運動はしていないし多少筋肉は落ちただろうが、痩せた一番大きな原因はストレスだと思う。

「それはそうと、お前、色々あったらしいな」

「何がだ」

「会社で聞いた。ペットへの虐待の疑いがどうとかって」

「やっぱりその話か。お前も俺を疑っているんだな」いつものように、ついそいつを睨む。

「疑ってたら来ねえだろうが。確認しに来たんだよ」

「疑ってるんじゃねえか、やめてくれよ。避けられなかったんだ、何が楽しくて虐待なんかしなきゃいけねえんだ」

やはり噂は広まっているらしかった。

「なんだかんだ社内で一番お前と話してたのは俺だからな、社長にも探り入れてこいって言われたんだ」

「それを言ったら探りでもなんでもないだろうが」

社長にも疑われちゃあいよいよ本当に仕事への復帰が困難である。

「で、どうすんだ。これから」

やはり先のことを話すらしい、そいつは私が最低限はと思い出したコーヒーを啜りながら私に答えを求めた。

「これからこうする、で済んだらこんなに休んだりしてねえよ」

「それもそうだけど。せめて言わねえと始まらねえだろ」

「偉そうに言うな、こっちだってさんざん悩んでもどうしようもねえんだよ」

「だからわざわざ来てやったんだ」

「わざわざってなんだよ、最初から社長のいうことに全部従うからいけないんだろうが」

「無理やり逆らうのもおかしいだろ」

「そうやっていつもお利口さんにしやがって、さぞ気に入られるんだろうなあ」

「子供じゃねえんだからいいかげん人との関係を円滑にすることも覚えろよ」

暑さのせいだ、暑さのせいでおかしくなっているんだ——そう思わないと、このすぐに湧いて出てきてしまう感情を自分のものだと認められなかった。ガツンと頭の奥まで殴られてゆさぶられている感覚がして、その頭の奥の方から何かが出てきてしまうのではないかという恐怖に体を縛られた。反撃しなければ、私は、私は——!

「□□□□□、□□□、□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□」

「おい」

「□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□」

「おいおまえ、やめろ、お、い」

「あ」

気がつくとそこは血の海で、目の前にいるそいつも、自分の手も、机もコップもタンスもドアも床も、家の中の全てが、無残に、ズタズタだった。

『言葉は、』
制作日 2022/06/10
登場キャラクター -
メモ

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